感想:言い寄る(田辺聖子)

世の中には二種類の人間がある。言い寄れる人と、言い寄れない人である。私にとって五郎は、「言い寄れない」人であった。

 

この本のエッセンスはこのフレーズに詰まってます。

この本を読むと、恋愛で幸せになれる人、強い人とは何ぞやという答えの一端を感じられます。そして「言い寄る」は、残念ながらそうはなれない多くの人が共感を覚える、影響力のある作品です。

 

言い寄る (講談社文庫)

言い寄る (講談社文庫)

 

 

恋愛をしたことがある人なら、気になる相手にアプローチをしたこと・されたことがあると思います。

したことがある人には分かると思いますが、アプローチをする側には絶対のルールがあります。それは、相手が「自分と釣り合う」ということです。

イメージしやすく極端な例を出すと、どんなに面食いな百戦錬磨のナンパ師でも道端で見かけたガッキーは絶対ナンパしない。顔、環境、社会的地位等々が釣り合わないから。釣り合いの取れない人との恋愛が最終的に幸せになれないのは一般的な感覚として共感する人が多いと思います。

 

冒頭のフレーズにあるように、この本の主人公、乃里子は釣り合いが取れなかった五郎には最後まで言い寄れませんでした。

一方で金持ち遊び人の剛や渋いオジサマの水野たち他の男とは簡単に肉体関係を持ちます。

じゃあ釣り合いが取れなかったその五郎という男はそんなに素晴らしい人間なのか、というと決してそんなことは無いと僕は思います。確かに真面目でギターも上手くてちゃんと働いてて、何よりお人よし過ぎるほど優しいけれど、どこにでもいる普通の男性です。

乃里子が言い寄れなかった理由は2つ。1つは二人の温度差、もう1つはこれまで投じた時間です。

 

1つ目について、まず、彼女は自分を悲劇のヒロインに見立てがちな部分を持っています。

「気が合うけれども、比較的どうでもいい人とは寝れる。けれども本当に大切な五郎とは踏み込んで話すことも難しい。」

「こんなに五郎を好いているし態度に出しているのに全然五郎は自分を向いてくれない。」

「自分がこんなに焦れる思いをしてるのに、親友の美々はいともあっさりと五郎と結婚しようとする。」

作品を読んでいる途中は全部高いハードルに僕も感じていましたけど、実はどれも大したことないんですよね。

現に終盤、五郎を失ってからは「今になってみれば、お情けの同情結婚でも何でも、良かったように思われる」と自分で述べてます。それに気づくまで、ずっと自分を悲劇的立場として見ていて、それを変えてくれる五郎のアクションを待ち続けてました。

でも五郎は最後まで動きません。だって乃里子を女として愛してなかったから、ヒーローになってあげられるほどの気持ちを持ってなかったから。

詰まるところ、乃里子は五郎を愛しすぎて、でも五郎はあくまで友人としての好意しか持っていなくて、二人は気持ちの釣り合いが取れてなかったんですよね。恐らく乃里子もそれを分かっていたからこそ、同程度の気持ちの表れとなるアクションを待っていたんだと思います。

 

そこまで分かってたなら早々に諦めるか、開き直って自分から告白でもすればいいじゃないか、という意見が出ると思います。

それを出来なくさせているのが2つ目の時間です。

誰でも「折角ここまでやったのに途中で諦めるなんて勿体ない」という感情を持ったことがあると思います(サンクコストコンコルド効果と言います)。

早い話、彼女は引くに引けなかったんですね。これまで五郎に向けてきた時間や気持ちの累積はもう気軽に表に出して全消費出来る程度のものではなくなっていた。

作品の中で「しんから惚れてる人間の場合は、これは失敗を許されない」とも言ってるように、乃里子は失敗が許されない段階に到達していました。それは、五郎と差があると上で書いた乃里子の気持ちがあるからで、その気持ちにたどり着くまで費やした時間があるからだと思います。

逆にかかったコストの少ない水野や剛には積極的ですし、剛を捨てようともしていました。

 

乃里子はどうすれば言い寄れたのか。

多分、ずっと昔の、五郎に惚れて間もない段階で言い寄るべきだったんでしょうね。

もしくは、気持ちを溜め込みすぎず、美々や剛といったほかの人たちに気持ちを小出しに言っておくべきだったと思いました。その辺のタイミング感や釣り合いのバランス感覚が(自他ともに割とどうでもいい)美々の方が恋愛強者だった、という感は否めないです。

けれど、僕を含めて世の中の人はそんなにうまく感情をコントロール出来ないし、タイミングを正確に見切れなくて、だからこの本は多くの人から共感されているんだと思います。